M・M・LOコラム

第10

「果実」について

果実について考えてみたい。実務的には多くの場合メインで扱われる問題とはならないが、細かい話にも拘ることが大事である。

果実(かじつ)は、日常的な意味では、りんごやみかんといった果物(くだもの)を指す言葉であるが、法律的な意味では、物から生み出される収益のことを指している(もっとも、「果実」という用語は、食品衛生法や卸売市場法など一部の法律では、日常的な意味と同様に果物を指して用いられていることもある)。
野菜畑で育てられ収穫されたレタスや、酪農家が育てた牛から搾られた牛乳は、日常的な意味において果実ではないが、法律的な意味において果実である。ここで「酪農家が育てた」などという修飾語を用いているのには理由がある。というのも、法律上の果実であるためには、「物の用法に従い収取する産出物」であることが必要である。酪農家が育てている乳牛は、牛乳の収取という経済的目的により育てられているから、この乳牛から搾られた牛乳は果実なのである。したがって、例えば、耕作や運搬などのためだけに飼われている牛の牛乳は、日常的な意味でも、法律的な意味でも、果実ではない。


更に日常的な意味からは離れるが、賃貸マンション経営により得られる賃料も、法律的な意味では果実である。日常的な用語とは異なるとはいえ、樹木を植えて水や肥料をやっていれば果物が得られるのと同様、マンションを建てて入居者を募り管理していれば賃料が得られると考えると、賃料を「果実」というのも言い得て妙という気がする。
実は、「果実」は、多数の法律関係と関連をもっており、さながらスーパーマーケットに多くの果物が売られているように、市民生活に深く関わっている。私法の一般法である民法にも、果実という言葉が何度も、しかも、多くの分野で登場する(民法88,89,189,190,196,297,330,371、575,579,646,992,993,1036条)。我々の生活にとって、日常的な意味だけでなく、法律的な意味でも、果実はなくてはならないものなのである。


ここまでは、民事法の分野を念頭に置いて果実について述べてきたが、刑事法の分野でも、「果実」という語が用いられることがある。刑事訴訟法における重要な法理論に、違法収集証拠排除法則というものがある。違法に収集された証拠は、刑事裁判において証拠としての能力を否定される、というものである。この違法収集証拠排除法則の分野において、「毒樹の果実」という理論がある。アメリカ法における「fruit of the poisonous tree」の日本語訳であり、違法な手続で収集された証拠(毒樹)が排除される場合、それに基づいて得られた証拠(毒樹の果実)も排除されるという比喩的な法理論である。この理論によれば、例えば、拷問により自白(毒樹)を得て、その自白により凶器(毒樹の果実)を発見したという場合、その凶器は証拠能力を有しない(証拠として使えない)ということとなるのである。


以上のように、民事・刑事を問わず、果実は重要な概念である。野生の動物たちが森に自生している果物を巡って日々縄張り争いをしているように、人間も、果実が誰のものであるか、果実が毒されているかなどを巡って、日々裁判などで争っているのである。


話は変わるが、果実を巡る争いは、神話の世界にまで遡ることができる。アダムとエバ(イブ)は、エデンの園の禁断の果実を食べ、神から園を追放されたという。この関係に我が国の法律が適用されると考えるとすると、ここでの神は、アダムらに対し、禁断の果実を食べたことを理由として、アダムらとのエデンの園の貸借に関する契約(おそらく使用貸借契約か)を解除し、土地(エデンの園)の明渡請求をしたものと考えられる。しかし、神とアダムらとの間に、(使用)貸借の目的たるエデンの園に植えられている樹木の果実を食べてはいけないという特約が仮にあったからといって、この特約違反により直ちに契約を解除し、アダムらの生活の拠点であったはずの土地から追い出すというのはいささか乱暴な話に聞こえる。そればかりか、神は、アダムらの追放後、アダムには生涯労働の罰を与え、エバ(イブ)には妊娠・出産の痛みの罰を与えたというが、これは権利の濫用に当たり許されないものであろう。アダムらが、細かい話(果実の話)にも拘る弁護士に依頼できたならば、歴史は違ったものになったのではなかろうか。

 

東口良司 2019.12.4